会津藩その後⑩ 会津から皇族へ

1928年(昭和3年)9月28日、昭和天皇の弟・秩父宮雍仁親王と、松平節子(まつだいらせつこ)さんが、結婚しました。
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松平節子さんは、戊辰戦争(会津戦争)の時の会津藩主・松平容保の六男で外交官の松平恆雄の長女です。
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「逆賊」「朝敵」といわれ、会津戦争で降伏した1868年(明治元年)9月から、60年でした。
旧会津藩の士族の復権につながり、会津人は感激して、提灯行列でお祝いしたということです。
成婚に際し、皇族の「節子(さだこ)」の同字を避け、皇室ゆかりの伊勢と会津松平家ゆかりの会津から一字ずつ取り、同音異字の勢津子に改めました。
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節子さんが、結婚する前に家族と宿泊したのが、東山温泉の新滝です。
新滝では、3階建ての別館を建ててお迎えしました。
昭和48年に、会津若松市内の御薬園に2、3階部分が移築されました。
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勢津子さまの誕生日、9月9日にちなみ、「重陽閣」と命名されました。
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室内が公開されることがあります。
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1990年(平成2年)6月29日、秋篠宮文仁親王と、川嶋紀子(かわしまきこ)さんが結婚しました。
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川嶋紀子さんは、会津藩士池上武輔の息子、池上四郎のひ孫に当たります。
池上四郎は、1857年(安政4年)、会津若松市で生まれ、11歳の時、会津戦争を経験し、父と共に斗南藩へ移住しています。
その後、1913年(大正2年)、57歳で大阪市長に就任しています。
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会津戦争後の120年間に、会津人の子孫の2人が皇族に嫁いでいるというのは、会津人が誇りとするところです。

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会津藩その後⑨ 鶴ヶ城再建

1868年(明治元年)の戊辰戦争(会津戦争)で、焦土となった若松の町は、約4万人の人口の半数以上を占めていた武士階級がいなくなりました。
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1869年(明治2年)、廃藩置県により、若松県が成立します。
1874年(明治7年)、鶴ヶ城の取り壊しが始まります。
このころは、急速に西洋文化が取り入れられ、日本古来の文化は、軽視された時代でした。
さらに、新政府への不平士族の動きも活発で、政府は、士族の反乱に神経をとがらせていました。
特に、旧会津藩士の精神的な支えである鶴ヶ城の取り壊しは、政府の願うところでした。
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城内の建物は、次々に取り壊され、石垣と堀だけを残して荒城となりました。

1876年(明治9年)には、福島県に編入します。商人や職人が、町の復興に立ち上がったのでした。
1889年(明治22年)の市町村制制定の際には、全国で38の市が誕生しますが、福島県には、市ができませんでした。
戊辰戦争に敗れ朝敵となったため、新政府ににらまれ差別されたという話もあります。
このころの若松の人口は、約2万2千人でした。
この後、人口が増え続け、10年後の明治32年、福島県下最初の市「若松市」が誕生します。

鶴ヶ城再建を提案したのは、1948年(昭和23年)に若松市長になった、「横山 武」でした。
再建には、巨額の費用がかかるため、市民の間でも賛否が分かれました。
そして、1957年(昭和32年)、戊辰90周年記念祭において、天守閣の再建決議文が読み上げられました。
本格的に始動したのは、昭和36年からで、再建資金は、1億5千万円(当時)でした。
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1965年(昭和40年)、落成式が行われ、横山市長は、羽織はかまで式辞を読みながら、感極まって涙を流しました。永年の夢が結実した万感の思いに、人々は思わず静まりかえり、やがて深い感動が会場全体を包みました。
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2015年(平成27年)、再建50周年を迎えた天守閣は、会津のシンボルとして大きな観光資源になっています。
再建に執念を燃やした横山市長の先見性を、高く評価してもいいのではないかと思います。
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会津藩その後⑧ 野口英世

会津藩士ではありませんが、猪苗代町で生まれた野口英世は、明治生まれの会津人です。
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1876年(明治9年)、猪苗代湖畔の貧しい家庭に生まれ、清作と名付けられます。
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1歳半のとき、母シカが目を離したすきに、自宅のいろりに落ちて、左手に大やけどを負います。
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猪苗代高等小学校を卒業すると、手の手術をしてくれた渡部医師の会陽医院に薬局生として住み込み、医学の勉強を始めます。
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会津若松市の旧会陽医院のあたりは、野口英世青春通りと名付けられています。
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1895年(明治28年)、東京に行き、医師の資格を得ます。
その後、北里柴三郎の伝染病研究所に入り、細菌学を学びます。
この頃、清作から英世に改名します。
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1899年(明治33年)、アメリカに渡ります。
ロックフェラー医学研究所の助手時代に、梅毒スピロヘータの純粋培養に成功します。
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英世といえば「努力と忍耐」という言葉が当てはまったのは、この頃で、不眠不休の研究の成果でした。
ヨーロッパ各地で講演を行い、その名を世界に知られるようになり、日本には、帰ってきませんでした。
「早く帰ってきてくだされ」とくり返す、母シカからの手紙が届いたのは、その頃です。
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1914年(大正3年)、東京帝国大学から理学博士の学位が授与され、ノーベル賞の有力候補に挙げられましたが、第一次世界大戦が起こって、受賞はかないませんでした。
1915年(大正4年)、英世は、15年ぶりに日本に帰国します。
故郷会津にも帰りました。猪苗代の翁島停車場では、大勢の人が出迎えて大歓迎でした。

アメリカにもどった英世は、黄熱病研究のため、エクアドルに派遣されます。
その後、メキシコ、ペルー、ブラジルと渡り、
1927年(昭和2年)アフリカに渡ります。
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1928年(昭和3年)、ガーナで黄熱病に感染し、51歳の生涯を閉じました。
墓碑には、「科学への献身により、人類のために生き人類のために死す」と刻まれています。

藩士ではないので、義の教えはなかったかもしれませんが、研究の偉業は、すばらしいです。紙幣の顔になっている会津人は、野口英世だけです。

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