会津領主・藩主⑧ 保科正之の時代

寛永20年(1643年)加藤明成は、会津・白河など40万石を幕府に返上します。
その後、保科正之(ほしなまさゆき)が、最上(山形)20万石から、3万石加増されて会津23万石に入ります。
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保科正之は、徳川2代将軍秀忠の第4子として生まれました。
母親のお志津は、秀忠の側近くで召し使えられた女でした。
お志津は、隠密に出産しますが、秀忠は、その子を幸松と名付け、見性院(けんしょういん)に預けます。
元和3年(1617年)、7歳になった幸松は、信州高遠(たかとう)城主の保科正光(ほしなまさみつ)の養子になります。
寛永8年(1631年)、保科正光が亡くなり、保科正之が、高遠3万石を相続します。
寛永13年(1636年)、正之は、将軍徳川家光の命により、出羽国村山郡最上20万石に転封になります。
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寛永20年(1643年)、会津に転封になったときには、高遠から従ってきた家臣たちも会津に入ります。
「高遠そば」は、この時代の名残です。

保科正之が会津に入ったとき、会津の南側に幕府の直轄領がありました。
会津では、この地方を城下の南に連なる山々ということで、南山とよんでいて、この地の年貢は、幕府の蔵に納めるので、南山御蔵入領(おくらいりりょう)といいました。
幕府の直轄地ではありましたが、実際の施政は、会津藩にまかせ、その年貢だけを受け取っていました。このため、会津藩の実質支配領は、28万石を超えていました。
この支配は、幕末の文久3年(1863年)まで続きます。
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正之は、将軍徳川家光の弟です。家光は、正之に、幼い跡継ぎ、家綱のことを頼みます。
承応2年(1653年)、正之は、将軍家綱の名代として上洛し、以降、江戸に常駐して家綱の補佐役を務めます。

寛永20年(1643年)に、会津に入った正之は、4ヶ月間で、若松城下や領内各地を見回って、領内の様子をつかみます。
その後は、江戸から、家老たちに、指示、命令を出していきます。
慶安2年(1649年)、大町を起点とする五街道を幕府に報告しています。
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今も国道、県道の起点になっています。
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道路元標があります。
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寛文8年(1668年)、「家訓十五ヵ条」(かきん)を制定しています。
これが、この後、会津藩の大義になっていきます。
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一、大君の義、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず。
ここで、将軍家への忠勤を明文化しています。これが、幕末にかかわってきます。
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寛文12年(1672年)、正之は、病気で亡くなります。
生前に定めておいた猪苗代の美祢(みね)に埋葬され、土津神社(はにつじんじゃ)として祭られています。
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大きな碑石があります。
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正之の墓は、猪苗代にありますが、この後の松平家の墓は、会津若松にあります。
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松平氏の時代へ つづく

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会津領主・藩主⑦ 加藤嘉明の時代

寛永4年(1627年)、蒲生忠郷に代わって、伊予国松山城主であった加藤嘉明(かとうよしあき)が、若松城主となります。
会津藩は、安積、岩瀬郡を含む40万石でした。
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加藤嘉明は、豊臣秀吉に仕えていて、朝鮮出兵でも活躍しました。
秀吉の死後は、石田三成と仲が悪く、徳川家康に従いました。
関ヶ原の戦いの功績により、松山藩20万石の大名となっていたところで、会津入りを命じられました。
この時、嘉明65歳で、息子明成(あきなり)と共に会津に入っています。

会津に入った後、早々に嘉明は、領内の地名を改めます。
若松城下の日野町が甲賀町になったのは、この時です。
また、街道の整備にも着手しています。
それまで、若松城から白河へ通じる道は、背あぶり峠を経由していましたが、城下北東の飯盛山の近くから、滝沢峠を経由する新道を開きました。
登山口の滝沢の横山家は、本陣の指定を受けました。
江戸時代の終わりの戊辰戦争(会津戦争)まで、滝沢本陣は、藩主や家臣が、峠に向かう準備をするための屋敷として使われます。
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寛永8年(1631年)9月、嘉明は病にかかり、江戸の屋敷で亡くなります。
跡を継いだのは、加藤明成(かとうあきなり)で、40歳でした。
寛永16年(1639年)江戸にいた明成は、若松城の大改修の命令を出します。
蒲生氏郷が築城した若松城は、黒壁の七層の天守閣を中心に威風を誇っていましたが、慶長16年(1611年)の大地震で傾いたままでした。
七層だった天守閣は、五層に改修されました。
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北と西の馬出し(城門前の土手)は、共に拡張して、出丸にしました。
東に開いていた大手門は、北出丸に向かって開かれました。
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西出丸もつくられ、頑強な守りの城になります。
これが、戊辰戦争の籠城戦でも、新政府軍の城内侵入を許しませんでした。
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これらの工事には、上杉景勝が築城半ばで工事を中止した神指城の石垣を活用したと伝えられています。

このような工事を行うため、多額の費用が必要でした。
このため、年貢を厳しく取り、収入を増やす政策をとりました。しかし、明成は、病気のため、大藩の政務はとれないという理由で会津領返上を申し出ます。
寛永20年(1643年)、明成は、会津領主の座から降りることになります。加藤氏の会津統治は、16年でした。
明成に代わり、保科正之が会津に入ります。

保科正之の時代へ つづく

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会津領主・藩主⑥ 蒲生秀行の時代

豊臣秀吉によって、宇都宮に移されていた蒲生秀行(がもうひでゆき)は、関ヶ原の戦いで徳川家康に味方したため、上杉景勝の後、会津60万石を賜ります。
慶長6年(1601年)8月、蒲生秀行が、3年半ぶりに、19歳で会津に戻ってきます。
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慶長12年(1607年)4月、秀行は、二代将軍徳川秀忠から、松平の姓を与えられます。
秀忠と、その妹婿である秀行との交際は、儀礼的ではなかったようです。

若い秀行は、古くからの重臣たちと対立することが多く、家中騒動が起こったり、慶長16年(1611年)には、大地震があったりして、領内は穏やかではありませんでした。
大地震では、若松城の石垣が崩れ、七層の天守閣が傾いたり、阿賀川の下流が崩れて山崎湖が出現したり、大きな被害がありました。死者は、3700人あまり、倒壊した民家は、2万戸をこえたと記録されています。

慶長17年(1612年)5月、秀行は、病にかかり30歳で亡くなります。
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会津若松市館馬町に、秀行の墓があります。
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廟屋が残っていて、その中に、五輪塔があります。
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秀行の跡を継ぐことになったのは、10歳の亀千代でした。
徳川家康は、孫にあたる亀千代を元服させ、松平忠郷(まつだいらたださと)と名乗らせます。
家康と秀忠は、家中で争いを起こさないようにと指示しています。
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蒲生秀行・忠郷と26年間の会津支配が続きますが、その内容は、江戸に対する奉仕に力を入れたものでした。
財政の苦しさは、家臣たちの生活に及び、それはそのまま農民に対する重い負担となりました。
城下の発展や農村の発達については、あまりよいことはなかったようです。
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寛永4年(1627年)1月、痘瘡を病んでいた蒲生忠郷は、若松城において25歳で亡くなります。
会津若松市の高巌寺に墓があります。
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蒲生忠郷には、子どもがなかったので、幕府は、忠郷の弟である上山城主蒲生忠知を伊予松山14万石に移し、蒲生家を存続させます。
そして、松山城主だった加藤嘉明が、会津に入ってきます。

加藤嘉明の時代へ つづく

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