十六橋、戸ノ口原でくい止めろ

戊辰戦争(会津戦争)で、母成峠を越えた新政府軍は、
1868年(慶応4年)8月22日、会津軍が焼き払った猪苗代城を通過し、猪苗代湖の北西側に迫ります。

猪苗代湖の北西には、猪苗代湖から会津側に水を引くために造った水門「十六橋」がありました。
これは、戊辰戦争の後に造られた水門橋です。
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この水門は、戸ノ口堰と呼ばれ、江戸時代の初めから水の管理をしていました。
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石造りの橋に改修したのは、1835年、戊辰戦争の33年前でした。
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このあたり(戸ノ口)が、会津若松城下に行くのに、最も近く進みやすい所でした。
そこに、新政府軍が押し寄せました。
会津軍は、十六橋を壊して、新政府軍の進攻を止めようとしましたが、石造りの橋は、がんじょうで壊せませんでした。
新政府軍は、橋を渡って、戸ノ口原に入ってきます。

現在の十六橋です。
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橋と水門は、別になっていて、今も取水の管理をしています。
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新政府軍は、十六橋だけでなく、猪苗代湖から上陸して笹山からも入ってきます。
会津軍は、戸ノ口原で、応戦します。

8月22日昼、会津軍は、城の守りにあてていた白虎隊を出動させます。
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白虎隊は、夕方に、戸ノ口にいた部隊と合流しますが、雨が降る中、「こもつち山」で露営します。
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飢えと寒さにふるえている白虎隊の隊員を見かねた隊長の日向内記は、食料調達のために、城下に引き返します。
8月23日早朝、戸ノ口原で、白虎隊を含む会津軍500人と、新政府軍2600人とで戦闘状態になります。
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激しい戦闘になり、会津軍は、白虎隊を含む多くの戦死者を出し、総崩れになります。
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新政府軍の供養碑もたっています。
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この地で亡くなった会津藩士を地元の人が供養しています。
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墓石がたてられています。
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戸ノ口原で敗れ、退却した白虎隊の生き残り兵は、滝沢峠を通って、城下に戻ろうとしましたが、滝沢峠は、もう新政府軍が進撃中で、通れませんでした。
やむなく、山道を進み、猪苗代湖からの疎水を通って、飯盛山に出ます。

飯盛山の白虎隊自刃につづく

戸ノ口周辺には、案内板が整備されています。戦地跡を訪れてみませんか。

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