若い白虎隊、やむなく自刃

戊辰戦争(会津戦争)は、
1868年(慶応4年)8月23日早朝、戸ノ口原で新政府軍と会津軍が戦闘状態になります。

前夜、野営した白虎隊士中二番隊36名も、戦闘に加わりますが、新政府軍の兵力にはかなわず、退却します。
滝沢峠に行こうとしましたが、峠は、すでに新政府軍が進撃中だったので、谷を渡り、山道をはい、飢えと疲労に悩まされながらも、互いに励まし合って滝沢白糸神社の脇までたどり着きました。
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そこには、猪苗代湖から飯盛山に通じる疎水があり、洞門(トンネル)がありました。少年たちは、洞門を通って飯盛山に出ました。旧暦8月23日は、新暦10月上旬なので、疎水の水は少なかったと思われます。
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疎水の洞門を出て、城下が見えるところまで上ってみると、少年たちの眼に映ったのは、城下の無残な有様でした。
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飯盛山から会津若松城(鶴ヶ城)までは、直線距離で2800mです。
今は、民家がたくさん見えますが、当時は、田んぼの向こうに城下の町並みがあり、中心に城があったようです。
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町には、新政府軍が迫り、会津軍は、外堀から郭内に入られないように防戦していたと思われます。
自ら家に火を放った所も多く、炎が空を赤々と染め、黒煙の中に、城の天守閣が見えたのかもしれません。
この光景を見て、それまで持ちこたえていた少年たちの気力は、尽きてしまします。
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前日からの空腹と、雨の中の野営による睡眠不足と、敵の銃の恐怖で、判断力が鈍っていたのでしょう。
玉砕か、城に帰るか、敵陣に突入するか、討論があったようですが、最終的に、自刃することになります。
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飯盛山までたどりついて自刃したのは、20名でしたが、その内の1名、飯沼貞吉は、一命を取り止め、後に、白虎隊の最後の模様が後世に伝えられることになります。
自刃した19名の墓は、明治7年に飯盛山にたてられました。
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飯沼貞吉は、昭和6年に天寿を全うし、飯盛山に墓がたてられています。
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飯盛山は、駐車場からみやげ店が並ぶ坂道を上って、10分ぐらいで墓所に着きます。
白虎隊だけでなく、いろいろな史跡や説明があります。
時間をかけて、じっくり見てみてはどうでしょうか。
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城下に迫る新政府軍につづく

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