会津戦争⑧ 若松城下での攻防

戊辰戦争(会津戦争)
1868年(慶応4年)8月25日、若松城は、新政府軍に包囲され、籠城戦(ろうじょうせん)が始まります。約5000名が城内にいました。

8月29日の朝
佐川官兵衛(さがわかんべえ)が率いる1000名余が、態勢挽回をかけて、融通寺町口(ゆうづうじまちぐち)より出撃し、猛攻の末に新政府軍を敗走させ、近くの長命寺へと追い込みます。
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一時は、会津軍が優位に立ちますが、新政府軍の援軍に来た土佐藩兵の猛攻により、たちまち形勢逆転し、会津軍は、170名もの戦死者を出しました。
長命寺の塀には、銃弾の跡が残っています。
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歌碑がたてられています。
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長命寺の墓地には、戦死墓がたてられています。
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戦死者の名前は、刻まれなかったということです。
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墓石は、明治11年になってから、たてられました。
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佐川官兵衛は、これ以後、城に戻らず城外でゲリラ戦を展開しました。
城外攻防 

9月5日
佐川官兵衛は、日光口方面から来る新政府軍を、材木町の秀長寺(しゅうちょうじ)付近で待ち構え、襲撃します。
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新政府軍は、混乱し、多くの死傷者や損害を出しました。この戦いが、城下での会津軍で唯一の勝利となりました。
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戦いの様子が書かれている碑は、だいぶ朽ちていました。
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境内の大木は、当時の戦闘を見ていたことでしょう。
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9月8日早朝
長岡藩士山本帯刀(やまもとたてわき)が率いる40数名は、飯寺で新政府軍と戦いました。
会津軍400名余と協力し、一時は、新政府軍を退却させる奮闘を見せましたが、山本隊は、徐々に濃霧の中で敵陣に孤立し、包囲されて、山本ら三十余名が生け捕りにされ、その後阿賀川の河原で斬首されました。
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光明寺の墓地に、墓碑があります。
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籠城、城下での攻防が続きます。

孤立する若松城につづく

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