会津戦争⑩ 降伏、そして開城
戊辰戦争(会津戦争)
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1868年(慶応4年) 9月14日
新政府軍の砲撃による若松城総攻撃が始まり、9月21日まで続きます。
この間、城外での戦いがありましたが、いずれも敗北し、通信や食糧確保の道が絶たれます。
会津藩は、秋月悌二郎(あきづきていじろう)らを米沢藩陣営に派遣し、開城のための打ち合わせに当たらせました。
米沢藩から、新政府軍土佐藩の板垣退助(いたがきたいすけ)に、降伏の書が提出されます。
これを受けて、9月21日には、新政府軍の砲撃が止みました。
9月22日
若松城北出丸に「降参」と書いた3本の白旗がたてられました。
正午には、甲賀町通りの家老西郷頼母(さいごうたのも)邸の前で降伏式が行われました。
藩主松平容保(まつだいらかたもり)と喜徳(のぶのり)が、新政府軍軍監中村半次郎(なかむらはんじろう)に降伏謝罪状を渡しました。
地面には、4.5m四方の緋毛氈(ひもうせん)が敷かれました。
式が終わると、会津藩士は、この日の無念を忘れぬようにと、敷かれていた緋毛氈を次々と切り取り、その小片を懐中深く持ち帰ったということです。
後に、この緋毛氈は、「泣血氈」と呼ばれるようになり、この日のできごとを語り継ぐ重要な「証」となりました。
城内で開城を迎えたのは、4956名で、その3割は、婦女子、子ども、老人など兵士以外の者でした。
兵力が減り、同盟藩が次々と降伏する中でも、会津藩は、戦意を失わず、一ヶ月におよぶ籠城(ろうじょう)に耐えたのでした。
この後、会津藩の領地は、没収されます。
松平容保と喜徳は、それぞれ、鳥取藩と久留米藩に永預けとなりました。
藩士たちは、謹慎処分になり、一部は、1869年(明治2年)に、小樽や余市へ入植します。
1870年(明治3年)4月には、1700名が、下北半島に斗南藩として移住しました。
会津戦争 完
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