会津領主・藩主⑤ 上杉景勝の時代

慶長3年(1598年)3月、豊臣秀吉の命で、蒲生秀行が会津から宇都宮へ移った後、会津に入ったのは、上杉景勝(うえすぎかげかつ)です。
この時、秀吉の命令で、上杉の家臣は、一族ともども会津に移ってきています。
この中で最も信頼していたのが、直江兼続(なおえかねつぐ)です。
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上杉景勝に与えられた領地は、
蒲生氏から引き継いだ会津を中心とした92万石、
出羽国の庄内14万石、
佐渡14万石、
合わせて120万石にもおよびました。
これは、徳川氏に次いで、毛利氏と並ぶ大領地でした。
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上杉氏は、主な家臣を領内の小さな城に配置して、領内をきめ細かく治めるという方法をとりました。城の数は、28もありました。

百姓の負担は、蒲生時代より年貢の率が高くなり、さらに漆や蝋(ろう)も納めさせています。
この収入増を中央権力へ提供することはなく、上杉氏の軍事強化に振り向けています。このため、徳川氏との緊張関係が激しくなっていきます。

慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉が亡くなります。
豊臣政権の五大老の一人であった上杉景勝は、徳川家康と対立するようになります。

慶長5年(1600年)2月、上杉景勝は、直江兼続に命じて、神指城(こうざしじょう)新築工事を開始させます。
若松城が山の近くで、城の拡大が難しかったことと、阿賀川の舟運で物流を行う城下町をつくる計画があったようです。
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大阪城下のような、活気のある城下町を会津の地に築こうとしたのでした。
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神指城の工事は、3月から始まり、労働者の数は、8万人とも12万人とも伝えられています。
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石垣の石は、東山の慶山から運び込んでいます。昼夜を問わず工事が進められ、
6月には、本丸と二の丸が、ほぼできあがったと思われます。
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神指城全体の広さは、およそ55ヘクタールで、若松城の2倍。本丸の土塁の高さは、約10mで、本丸と二の丸の周囲には、堀をめぐらせました。
本丸の跡は、空き地になっています。
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東北隅には、土塁が残っています。
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神指城からは、遠く磐梯山が見えていたでしょう。
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しかし、工事は、突然中止になります。
徳川家康が会津に攻めてくるという情報があったからです。
家康が会津征伐の方針を決めたという知らせを聞いた景勝は、白河で迎え撃つべく布陣します。

慶長5年(1600年)7月、石田三成が、家康を討つように多くの大名に指令を出します。
石田三成の挙兵を知った家康は、宇都宮にいた蒲生秀行(上杉景勝の前の会津領主)を上杉軍と対峙させました。
家康は、会津征伐を中止して岐阜に向かい、9月、関ヶ原の合戦になります。
この間、景勝は、最上軍や伊達政宗と戦いますが、関ヶ原での豊臣方の敗北を知って会津に引き上げます。
若松に帰った上杉軍は、今後のことを協議した結果、降伏の道を選びました。

慶長6年(1601年)8月、景勝は、家康に謝罪します。その結果、会津など90万石が削られ、米沢30万石が与えられました。
こうして、神指城を築いて天下に望みをかけた景勝の会津支配は、3年半で終わり、その後に、宇都宮にいた蒲生秀行が、家康の婿として60万石で会津の領地に再び入ってきます。

蒲生秀行の時代へ つづく

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