会津藩主・領主⑨ 松平氏の時代

寛永20年(1643年)から、保科正之が藩主として藩政の基礎を固めましたが、
寛文12年(1672年)に、病で亡くなります。
亡くなる前に、四男正経(まさつね)に藩主を譲ったが、正経は、病気がちだったので、
天和元年(1681年)、13歳の正容(まさかた)に藩主を譲ります。
この後、50年間、正容が藩主の座にあります。
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元禄9年(1696年)、保科正容は、幕府から松平の姓を与えられ、葵の紋の使用を許されます。
このときから会津松平藩になります。
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初代保科正之の時代は、将軍秀忠の実子であり、徳川一門の中でも特別扱いでしたが、3代正容の時代になると、単なる徳川家門の一大名ということになります。
普請の出費などがかさむようになり、藩の財政は、苦しくなります。

保科正之は、猪苗代の土津神社(はにつじんじゃ)に、墓をつくりましたが、2代正経から後は、若松の東山に墓をつくっています。
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碑石もあります。
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3代正容の墓石です。
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若松城下では、蒲生氏の時代から城下町発展政策として、市が立てられていました。
若松では、6か所に市が立っています。これらの市を取りまとめていたのは、商人司である簗田氏(やなだ)です。
簗田氏は、葦名氏について会津に来たといわれ、領主が代わってもその役は、代々認められていました。
大町に、石碑がたっています。
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また、会津の特産品として、漆器と蝋(ろう)の生産を奨励しています。
これらの生産量が増えるのが、松平氏の時代であり、今も続いています。
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寛永3年(1750年)、松平容頌(かたのぶ)が、5代藩主になります。
この時代は、財政危機や、飢饉(ききん)が続きます。
この後に家老になったのが、田中玄宰(たなかはるなか)です。
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田中玄宰は、藩政の抜本改革を提案します。
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その中にあったのが、藩校日新館の設立です。
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享和元年(1801年)、若松城の西出丸の隣につくった日新館での教育が始まります。
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日新館は、文武両道の学校です。
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天文台もありました。
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今は、天文台が残っていて、日新館は、会津若松市の郊外に復元されています。
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日新館では、子供用の教科書がつくられています。
その規範になったのが、「什の掟」(じゅうのおきて)です。
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最後にある、「ならぬことはならぬものです」が、会津の掟ともいえます。

文化4年(1807年)、7代容衆(かたひろ)の時代、ロシア人が唐太(サハリン)や北蝦夷地に襲来します。
その警備のため、会津藩も兵を派遣します。
唐太へ800人、松前へ270人、宗谷へ370人、利尻島へ350人。
「大君の儀、一心大切に忠勤を存ずべく」と、幕府への絶対忠義を求めた会津藩家訓の精神は、保科正之の死から135年後に、会津松平家を国防の第一線に立たせたのです。
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松平容保の時代へ つづく

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