会津藩その後② 戦死墓と怨念

会津戦争では、新政府軍と会津軍との双方に多くの戦死者が出ました。
新政府軍の将兵は、ていねいに埋葬されたのに対し、会津藩士や一般人の死体は、戦争が終わっても放置されたままでした。
若松城下は、会津軍の降伏と同時に、新政府軍の統治下に入ったともいえます。
ほとんどの藩士たちは、東京や斗南藩に移動しました。
残った農民や商人は、新政府軍の令に従うしかなかったのです。
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阿弥陀寺にある「戦死墓」の墓標、この墓標が建てられたのは、明治6年です。

明治元年(1868年)9月、会津藩の降伏で、若松城の籠城戦が終結し、城や城下が新政府軍に明け渡されます。
城下には、会津藩士や一般人の死体が放置されていました。
新政府軍の民政局の「手をつけた者は、厳罰」という令により、道々には、見るも無惨な死体が捨て置かれたままにされ、それは、時がたつにつれて腐敗し、鳥獣の食い荒らすに任されていました。
この非情な扱いには武士道など皆無であり、あまりの処置に多くの会津藩士が怒りに燃えていました。
これに、一部の会津藩士が民政局にかけ合い、明治2年2月、死体の埋葬がようやく許可されますが、普通の戦死者として扱うことは堅く禁じられ、埋葬地は、古くからの罪人塚、作業にあたるのは、罪人の埋葬にあたってきた人に限定されていました。
死体の扱いについては、ていねいとは決していえない有様でした。むしろをはじめ、箱や風呂桶・戸棚などに4、5体一緒に押し込んだものを、大きな穴に投げ捨てるというやり方でした。
このような墓に線香をたむけることは、許されませんでした。
これが許されたのは、会津戦争後初の春彼岸、明治2年3月のことでした。
ここまでの怒りは、武士道に生きた会津人の心の中に、「怨念」として永く生き続けていきます。

阿弥陀寺には、2千余名が葬られています。
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阿弥陀寺に墓標が建てられたのは、明治6年です。
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長命寺には、百四十余名が葬られています。
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長命寺に墓標が建てられたのは、明治11年です。
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終戦から10年たっていますが、賊軍の墓という見方は、依然としてかわらず、墓標の文字は、「戦死墓」と限定されました。
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「戦死墓」その3文字は、新政府軍が会津に刻み込んだ苦衷の証として、今でも残っています。

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