会津藩その後⑧ 野口英世

会津藩士ではありませんが、猪苗代町で生まれた野口英世は、明治生まれの会津人です。
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1876年(明治9年)、猪苗代湖畔の貧しい家庭に生まれ、清作と名付けられます。
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1歳半のとき、母シカが目を離したすきに、自宅のいろりに落ちて、左手に大やけどを負います。
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猪苗代高等小学校を卒業すると、手の手術をしてくれた渡部医師の会陽医院に薬局生として住み込み、医学の勉強を始めます。
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会津若松市の旧会陽医院のあたりは、野口英世青春通りと名付けられています。
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1895年(明治28年)、東京に行き、医師の資格を得ます。
その後、北里柴三郎の伝染病研究所に入り、細菌学を学びます。
この頃、清作から英世に改名します。
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1899年(明治33年)、アメリカに渡ります。
ロックフェラー医学研究所の助手時代に、梅毒スピロヘータの純粋培養に成功します。
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英世といえば「努力と忍耐」という言葉が当てはまったのは、この頃で、不眠不休の研究の成果でした。
ヨーロッパ各地で講演を行い、その名を世界に知られるようになり、日本には、帰ってきませんでした。
「早く帰ってきてくだされ」とくり返す、母シカからの手紙が届いたのは、その頃です。
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1914年(大正3年)、東京帝国大学から理学博士の学位が授与され、ノーベル賞の有力候補に挙げられましたが、第一次世界大戦が起こって、受賞はかないませんでした。
1915年(大正4年)、英世は、15年ぶりに日本に帰国します。
故郷会津にも帰りました。猪苗代の翁島停車場では、大勢の人が出迎えて大歓迎でした。

アメリカにもどった英世は、黄熱病研究のため、エクアドルに派遣されます。
その後、メキシコ、ペルー、ブラジルと渡り、
1927年(昭和2年)アフリカに渡ります。
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1928年(昭和3年)、ガーナで黄熱病に感染し、51歳の生涯を閉じました。
墓碑には、「科学への献身により、人類のために生き人類のために死す」と刻まれています。

藩士ではないので、義の教えはなかったかもしれませんが、研究の偉業は、すばらしいです。紙幣の顔になっている会津人は、野口英世だけです。

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