会津領主・藩主⑥ 蒲生秀行の時代

豊臣秀吉によって、宇都宮に移されていた蒲生秀行(がもうひでゆき)は、関ヶ原の戦いで徳川家康に味方したため、上杉景勝の後、会津60万石を賜ります。
慶長6年(1601年)8月、蒲生秀行が、3年半ぶりに、19歳で会津に戻ってきます。
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慶長12年(1607年)4月、秀行は、二代将軍徳川秀忠から、松平の姓を与えられます。
秀忠と、その妹婿である秀行との交際は、儀礼的ではなかったようです。

若い秀行は、古くからの重臣たちと対立することが多く、家中騒動が起こったり、慶長16年(1611年)には、大地震があったりして、領内は穏やかではありませんでした。
大地震では、若松城の石垣が崩れ、七層の天守閣が傾いたり、阿賀川の下流が崩れて山崎湖が出現したり、大きな被害がありました。死者は、3700人あまり、倒壊した民家は、2万戸をこえたと記録されています。

慶長17年(1612年)5月、秀行は、病にかかり30歳で亡くなります。
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会津若松市館馬町に、秀行の墓があります。
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廟屋が残っていて、その中に、五輪塔があります。
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秀行の跡を継ぐことになったのは、10歳の亀千代でした。
徳川家康は、孫にあたる亀千代を元服させ、松平忠郷(まつだいらたださと)と名乗らせます。
家康と秀忠は、家中で争いを起こさないようにと指示しています。
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蒲生秀行・忠郷と26年間の会津支配が続きますが、その内容は、江戸に対する奉仕に力を入れたものでした。
財政の苦しさは、家臣たちの生活に及び、それはそのまま農民に対する重い負担となりました。
城下の発展や農村の発達については、あまりよいことはなかったようです。
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寛永4年(1627年)1月、痘瘡を病んでいた蒲生忠郷は、若松城において25歳で亡くなります。
会津若松市の高巌寺に墓があります。
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蒲生忠郷には、子どもがなかったので、幕府は、忠郷の弟である上山城主蒲生忠知を伊予松山14万石に移し、蒲生家を存続させます。
そして、松山城主だった加藤嘉明が、会津に入ってきます。

加藤嘉明の時代へ つづく

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