会津藩主・領主⑩ 松平容保の時代

文化4年(1807年)、会津7代藩主松平容衆(かたひろ)は、北蝦夷地の警備に兵を派遣します。
弘化4年(1847年)、幕府は、会津藩に、江戸湾の警備を命じます。
8代藩主松平容敬(かたたか)は、房総の富津に陣屋を設けます。
嘉永5年(1852年)、容敬が亡くなり、養子の容保(かたもり)が、9代藩主になります。
katamori01.jpg 
容保は、高須藩主・松平義建の息子として生まれ、容敬の養子になっています。

嘉永7年(1854年)、江戸湾砲台(お台場)の守備を命じられます。
文久2年(1862年)、容保は、新設の京都守護職に任命されます。
幕府に、「困ったときの会津藩頼み」という発想が根付いていたことを物語っています。
誠実な人柄の容保は、攘夷派の孝明天皇から信頼され、公武合体の実現に努めます。
katamori03.jpg 
慶応2年(1866年)1月、薩摩藩と長州藩は、倒幕のための薩長同盟を密約します。
7月、14代将軍徳川家茂が亡くなります。
12月、孝明天皇が崩御します。
慶応3年(1867年)10月、15代将軍徳川慶喜が大政奉還をします。
katamori06.jpg 
この時点で、松平容保と実弟桑名藩主松平定敬は、賊徒とみなされます。
慶応4年(1868年)1月、会津藩兵を含む旧幕府軍と薩長・土佐3藩の間で始まったのが、鳥羽伏見の戦いです。
この途中で、徳川慶喜と松平容保は、大坂から江戸へ逃亡します。
katamori02.jpg 

慶応4年(1868年)2月、慶喜は、上野の寛永寺で謹慎します。
容保は、会津に帰ります。
4月、会津藩は、東の白河口、西の越後口、南の日光口などに出兵します。
戊辰戦争の始まりです。
新政府軍は、錦の御旗を掲げて、奥羽に進軍してきます。
katamori04.jpg 
閏4月、白河城での攻防が1か月続きます。
5月、旧幕府側は、仙台藩を盟主として奥羽越列藩同盟を成立させ、新政府軍に対抗します。
katamori05.jpg 
6月、棚倉城が落城します。
7月、三春藩が降伏し、新政府軍は、二本松城に迫ります。
二本松城は、藩兵のほとんどが、白河に出動していて、城内に残るのは、老人と少年でした。
少年兵が防戦しましたが、1日で陥落します。
8月、占領した二本松城で、新政府軍の参謀板垣退助と伊地知正治が会津攻略の作戦を練り、母成峠に進撃することに決定します。
会津戦争の始まりです。

明治以降の会津藩に つづく

会津でのお泊まりは、こちらへどうぞ↓

福島の物産は、こちらからどうぞ↓
よかったらこちらをクリック

福島県ランキング

コメントの投稿

非公開コメント