会津藩その後① さいはての斗南へ

明治元年、降伏した会津藩の、その後を書いていきます。
1868年(明治元年)9月8日、会津藩が若松城に籠城している最中に、改元されます。
この年から数えて、今年、2018年は、会津人から見れば、戊辰戦争150年であり、新政府から見れば、明治維新150年なのです。

9月22日、降伏式が行われます。
9月23日、城内の会津藩士らは、猪苗代(会津藩領)に移動します。
9月24日、若松城は、新政府軍に明け渡され、武器、弾薬などが引き渡されます。

12月、藩主松平容保(まつだいらかたもり)と、息子喜徳は、東京に送られ、死罪を免じられ有馬家に永預けにすると処分されます。
1869年(明治2年)5月、藩主に代わる処分として、家老萱野権兵衛(かやのごんべい)が、戦犯として切腹しています。
戊辰戦争の戦後処理で、城や領地まで没収の上、藩主から藩士まで謹慎という厳しい処分は、会津藩だけでした。
これは、長州藩の報復だったといえます。

1869年(明治2年)1月、猪苗代に謹慎中だった会津藩士は、東京に移ります。東京では、謹慎所と呼ばれる捕虜収容所でした。
11月、松平容保の実子慶次郎に対し、猪苗代か陸奥南部藩領に三万石を与え、藩知事に任命するとの沙汰がありました。
これに対し、検討した結果、旧家老山川浩(やまかわひろし)の主張によって、北へ行くことが決まりました。
慶次郎は、生後4か月の幼児でしたが、容大(かたはる)と名のって、松平家の藩主となります。

1870年(明治3年)1月、東京と越後高田にいた4700人の藩士らは、謹慎を許され、容大に引き渡されます。
行く先が三万石だったので、会津に残る者、東京で暮らす者、北に行く者に分かれます。
2800人の藩士と、その家族を含めて17000人が、北に向かいますした。
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4月、大移動が始まります。
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新しい藩は、「斗南藩」と命名されました。
斗南藩の領地は、南北に分断されていました。
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9月、五戸に斗南藩庁を置き、2歳の松平容大が、会津から五戸に赴きました。

1971年(明治4年)2月、斗南藩庁を田名部に移し、山川浩が大参事になったが、冷寒な自然が、必死の努力を阻むのでした。
冬の間、寒い上に、食べるものがなく、地獄のような生活でした。
春になって、開墾しますが、収穫は、わずかだったようです。
7月、廃藩置県が布告されます。
これにより、斗南藩知事だった容大は、東京に移住します。
9月、斗南県は、弘前県に合併され、さらに青森県と改称されます。
こうして、斗南藩は、1年数か月で消滅したのです。
斗南に開墾を始めて、残った者もいましたが、10278人が、会津に戻っています。

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