会津藩その後④ 山川兄弟

1868年(慶応4年)8月26日、
会津戦争で若松城が新政府軍に包囲されている中、日光口(鬼怒川方面)から引き上げてきたのが、家老山川大蔵(やまかわおおくら)です。
山川は、農民から太鼓を借り、兵たちに、会津の俗謡「彼岸獅子」のはやしをうたわせました。
新政府軍が、これをながめてる間に、まんまと若松城に入城しました。
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山川大蔵は、会津藩国家老山川重固の息子で、1860年(万延元年)、父の死去により家督を相続しています。
若松城に戻り、籠城中は防衛総督として勇戦しますが、妻トセを爆撃で亡くしています。
戦後は、禁固謹慎に処せられますが、山川浩(やまかわひろし)と改名し、1870年(明治3年)には松平容大と伴に斗南藩に移り、大参事に就きます。
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廃藩置県後は青森県に出仕します。
1873年(明治6年)に、陸軍に入り、同年陸軍少佐として熊本鎮台に移ります。
1874年(明治7年)には、佐賀の乱で左腕に重傷を負うものの、中佐に昇進します。
1877年(明治10年)、西南戦争では、陸軍中佐征討軍団参謀として出征し、熊本城への入城に成功します。西南戦争を「会津藩名誉回復の戦争」と捉えていました。
1880年(明治13年)には、陸軍大佐に進級しています。
1886年(明治19年)には、高等師範学校の校長に任じられています。
1890年(明治23年)には、貴族院議員に勅選されています。
1898年(明治31年)2月4日病死しています。

山川健次郎(やまかわけんじろう)は、山川重固の三男で、山川大蔵(浩)の9歳下の弟です。
会津戦争の時は、白虎隊に編入されましたが、若くて出陣しませんでした。
戦後、謹慎先を脱出し、長州藩士奥平謙輔の書生となります。
1871年(明治4年)、アメリカへの国費留学生に選抜されジャパン号で渡米し、イェール大学で物理学の学位を取得して帰国します。
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1879年(明治12年)、日本人として初の物理学教授になります。
1901年(明治34年)、48歳で東京帝国大学総長となります。
1904年(明治37年)、貴族院勅選議員になります。
1911年(明治44年)、九州帝国大学の初代総長となります。
1913年(大正2年)、再び東京帝国大学の総長となります。
1931年(昭和6年)、6月26日病死しています。 

明治の世で、活躍した会津人の兄弟2人です。

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