会津藩その後⑦ 新島八重
会津藩の砲術師範山本家の娘に生まれた、八重は、24歳で戊辰戦争(会津戦争)を経験します。

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若松城防衛の最前線で、当時最新鋭の七連発スペンサー銃で戦った女性は、八重一人でした。
彼女の活躍の様子は、平成25年(2013年)放映のNHK大河ドラマ「八重の桜」で全国に知られることになります。
山本家は、若松城の西側、日新館の近くにありました。
兄の山本覚馬と共に、明治維新前後に活躍しました。
現在は、空き地になっています。
1896年(明治元年)、会津戦争が終わると、八重は、米沢で暮らします。
この間、夫の川崎尚之助は、斗南藩に行ったため、離縁しています。
1871年(明治4年)、八重は、兄覚馬を頼って京都に移ります。
京都では、女子教育施設で臨時の教師を務めるかたわら、盲目の覚馬の介護をします。
英語を学び、キリスト教の教えを学び、新しい世の中に踏み出す努力を怠りませんでした。
1876年(明治9年)、新島襄と結婚します。
そして、同志社女学校(後の、同志社女子大学)を開設します。
1890年(明治23年)、襄は病気のため急逝します。
襄の死後、八重は日本赤十字社の正社員となります。
1894年(明治27年)、日清戦争では、広島の陸軍予備病院で4か月間篤志看護婦として従軍します。
1904年(明治37年)、日露戦争では、大阪の陸軍予備病院で2か月間篤志看護婦として従軍し、その功績によって勲六等宝冠章が授与されます。
1928年(昭和3年)、昭和天皇の即位大礼の際に銀杯を下賜されます。
1932年(昭和7年)、自邸で亡くなります。86歳でした。
八重は、貧しく控えめな生活を送らざるを得なかった、多くの会津女性に代わって、生涯「最前線の女」を貫き通したと言えます。
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