会津戦争⑥ 新政府軍、会津城下突入

戊辰戦争(会津戦争)は、
1868年(慶応4年)8月23日早朝、戸ノ口原で新政府軍と会津軍が戦闘状態になり、会津軍が撤退、白虎隊士中二番隊が飯盛山で自刃します。

同じ頃、滝沢本陣で待機していた藩主松平容保(まつだいらかたもり)は、戸ノ口原での敗戦の知らせを聞いて、城に戻ります。
この時、新政府軍は、滝沢峠を越えて、滝沢本陣に迫っていました。
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滝沢本陣の座敷にある刀傷や、弾痕は、この時のものです。
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滝沢本陣から、若松城の外堀にかかる甲賀町口郭門(こうかまちくちかくもん)までは、2kmありません。
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新政府軍3000人が迫る甲賀町口郭門には、家老田中土佐(たなかとさ)が守備にあたりました。
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門の石垣が残っています。
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この門は、若松城の北の入り口に続いていて、城への最短ルートでした。
当時は、門の両側に土塁があり、外堀がありました。
門の内側が武家屋敷、門の外側が町人の町でした。
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甲賀町口の東側の六日町口郭門(むいかまちくちかくもん)は、家老神保内蔵助(じんぼくらのすけ)が守備にあたりましたが、午前10時前には、相次いで破られました。二人の家老は、責任を取り、近くの土屋邸で自刃しました。
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甲賀町口郭門を突破し、一気に城の北出丸に直進した新政府軍は、背水の陣を敷く会津軍の銃弾に、多数の死者や負傷者を出し、一度郭外まで後退しました。
北出丸の石垣は、今も残っています。
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その後も北出丸を攻めきれない新政府軍は、城の反対側の天神口へ兵を送りました。
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藩主松平容保が、急ぎ集めた80余名の兵は、接近戦を制し、湯川の対岸へと新政府軍を退けました。
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しかし、戦いに不慣れな即席部隊は深追いし、湯川対岸に潜んでいた新政府軍の一斉射撃を受け、多くの戦死者を出しました。
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8月23日早朝の城下は、新政府軍が近づいて来ることを知らせる早鐘が鳴り響き、藩士の家族らは、城に入りました。しかし、一部の武家屋敷では、婦女子や老人が足手まといにならぬよう自ら命を絶ち、その数は、230名余にものぼりました。
家老西郷頼母邸(さいごうたのも)では、妻千重子らが自刃することを決めていました。
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西郷邸は、城の北の入り口にありました。
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21人の婦女子が辞世の歌を詠んでから自刃しました。
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当時からあったと思われる大木が、今も木陰をつくっています。
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千重子が詠んだ歌の、なよ竹の碑が小田山の善龍寺にあります。
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21人の墓も善龍寺にあります。
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これも、会津戦争の悲劇の一つです。
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鶴ヶ城の東側にある、「まなべこ」では、会津戦争について分かりやすく説明されています。
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籠城戦の始まりにつづく

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