会津戦争⑨ 孤立する若松城
戊辰戦争(会津戦争)

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1868年(慶応4年) 9月14日朝8時
小田山からの砲撃を合図に、新政府軍による若松城総攻撃が行われます。
この日までに、若松城の外堀の郭門は、天神口以外すべて破られ、包囲されていました。
小田山や甲賀町口などに砲台を設置し、約50門の大砲で、この日だけでも2500発の砲弾が城に撃ち込まれました。
四斤山砲は、両軍で主力の大砲として使っていました。
城に撃ち込まれた砲弾です。
至近距離からの砲撃で、若松城の天守閣は、崩れ落ちそうです。
9月15日
若松城の南にある一ノ堰で、激しい戦闘が起こり、会津軍は必死に戦いましたが敗れ、城への唯一の食料補給路が絶たれました。
この戦いでは、多くの犠牲者を出しました。家老で唯一戦死した一瀬要人(いちのせかなめ)の墓が、光明寺にあります。
山本八重の父、山本権八(やまもとごんぱち)も、ここで戦死しました。
墓石のとなりに説明板があります。
9月18日
新政府軍は、高田(会津美里町)を占領します。この結果、会津軍は、外部との連絡路も断たれます。
食料補給路を失い、連絡路を断たれ、若松城は、完全孤立状態になりました。
七日町の通りに面した所に、「阿弥陀寺」があります。
この寺には、会津軍の戦死者1300柱の遺骸が埋葬されています。
墓石には、「戦死墓」と刻まれています。
会津軍の戦死者の遺骸は、しばらく放置されていました。
阿弥陀寺に埋葬されたのは、翌年になってからでした。
籠城から約一ヶ月、降伏を決断します。
降伏、そして開城につづく
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