会津領主・藩主③ 伊達政宗の時代

1189年から、会津の領主を400年続けた葦名氏。
18代目の盛隆(もりたか)が家臣に殺害されたのが、天正12年(1584年)10月6日でした。
19代目の領主になったのは、生後1ヶ月の亀王丸(かめおうまる)です。
この直後の天正12年(1584年)11月26日、隣国米沢(現山形県)の伊達政宗(だてまさむね)が檜原城(北塩原村)を襲撃し、葦名方の穴澤(あなざわ)一族を滅ぼしています。
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これを受けて葦名氏は、大塩村(北塩原村)に、柏木城を築きます。
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当時の米沢路は、米沢から喜多方への最短ルートで、米沢から峠を越えた所が檜原(ひばら)、その先の大塩峠を越えると、大塩です。
大塩は、重要な防衛線だったので、柏木城を築きましたが、この城跡は、その存在が最近まで知られていませんでした。
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柏木城跡は、数年前に発掘調査が行われ、見学できるようになりました。
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天正13年(1585年)5月、伊達政宗は、檜原から会津を攻めますが、葦名方は、柏木城で防戦しました。
門や、屋敷の石垣が残っています。
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土塁も残っています。
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天正15年(1587年)3月、亀王丸が3歳で亡くなり、義広(よしひろ)が会津に入ります。
このころから、上杉景勝、伊達政宗、佐竹義重などの大名たちは、各地で小さな争いを繰り返します。
天正16年(1588年)6月、伊達政宗は、猪苗代盛国を伊達方に引き入れます。
天正17年(1589年)6月、伊達政宗は、家臣の片倉景綱(かたくらかげつな)を猪苗代へ、原田宗時(はらだむねとき)と、新田義綱(にったよしつな)を檜原に送りました。
3日後には、政宗も猪苗代城に進軍します。
伊達方の動きを知った葦名義広は、黒川城(会津若松)から、猪苗代方面に出陣します。
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6月5日、磐梯山麓の摺上原(すりあげはら)で決合戦が始まりました。
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早朝から始まった激戦でしたが、午後には、葦名方が劣勢になり、一斉に退却しました。
葦名方の活躍を、後の時代に、三忠碑として残しています。
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旧二本松街道に石碑があります。
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摺上原のあたりは、そば畑と水田になっています。
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摺上原の戦いに敗れた葦名義広は、黒川城へ逃げ帰りました。
対策を話し合おうとしましたが、重臣たちは、だれも応じなかったと言われています。

摺上原の合戦で、葦名氏に勝った日から6日後の、天正17年(1589年)6月11日、伊達政宗は、黒川城に入りました。
政宗は、手際よく新しい国造りに取りかかりました。
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政宗は、領民の疲れを招く城の改築は、差し控え、まず、手柄のあった家臣たちに恩賞を与え、軍備を整えて、関東への進出の時期を待つという目算があったようです。
政宗が葦名を攻めたことを知った豊臣秀吉は、天正17年(1589年)7月4日、会津から兵を撤退することを命じています。
そのうち、秀吉の小田原攻めが具体化し、政宗にも、参加の催促が来ます。
天正18年(1590年)6月5日、政宗が、小田原に着きます。
6月9日、秀吉は、奥羽の仕置を命じ、政宗は、会津攻略がらみで手に入れた領地を没収されました。
7月13日、政宗は、家臣団を引き連れ、黒川城を出て、米沢城に移りました。
こうして、会津の伊達支配は、1年で終わったのです。

蒲生氏郷の時代へ つづく

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