会津領主・藩主④ 蒲生氏郷の時代

天正18年(1590年)、豊臣秀吉は、小田原城を攻め落としました。
奥州仕置きで、伊達政宗から、会津黒川城を没収します。
8月9日、秀吉は、小田原から白河を通って黒川に入ります。この間の道路の普請を政宗に命じています。
秀吉は、黒川滞在中に「検地令」を出しています。
そして、会津の領主として指名したのが、蒲生氏郷(がもううじさと)です。
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蒲生氏郷は、弘治2年(1556年)、近江国日野城主(滋賀県)蒲生賢秀の子として生まれ、幼くして織田信長の人質となりましたが、信長に愛され、娘冬姫と結婚することとなりました。
その後、秀吉のもとで小牧・長久手の合戦に活躍し、伊勢国松ヶ島(後の松坂)12万石の城主でした。
九州征伐・小田原征伐の功のよって会津40万石を命じられ、検地の結果、92万石の領主となりました。
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氏郷は、黒川の城下町を「若松」と名称を変えます。これは、自分の郷里である近江国蒲生郡の「若松の森」にちなんでつけたと伝えられています。

文禄元年(1592年)、氏郷は、城と城下町の本格的な構築を命令しています。
①郭内の大通りは、東西三里(12km)、南北二里(8km)の十字形に交差した街路にする。
②郭の周囲は堀を深くし、要所に木戸をつくって警護する。
③商人や職人の屋敷は、侍の屋敷と区別する。
④城下町のはずれに旅宿その他を置く。
⑤交易を盛んにするため、市を開く。

文禄2年(1593年)、若松城の本丸中央に七層の天守閣が完成します。
文禄3年(1594年)2月、「若松」という名をつけ、城を築き、城下町を整備した氏郷は、京都に向かいます。
氏郷は、京都で病にかかり、若松には、帰れませんでした。
文禄4年(1595年)2月7日、氏郷は、40歳で亡くなります。
遺骨は、京都の大徳寺黄梅院に葬られ、遺髪は、若松の興徳寺に埋葬されました。

氏郷が亡くなった跡を、秀吉は、氏郷の子鶴千代に継がせます。
13歳の鶴千代は、名を秀行と改め会津領主となりますが、若かったので重臣たちの紛争などがありました。
慶長3年(1598年)1月、秀吉は、秀行を宇都宮12万石へ左遷させます。

この後、会津に入ったのは、上杉景勝です。

上杉景勝の時代へ つづく

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