会津藩その後③ 松平家の行く末

明治元年(1868年)9月22日正午、若松城の降伏開城の場に臨んだのは、会津九代藩主松平容保(まつだいらかたもり)と、養子の喜徳(のぶのり)です。
その日の夕刻、容保親子は、会津藩滝沢村の妙国寺に入って、謹慎の身になります。
12月、容保・喜徳父子は、東京に送られ、容保は、鳥取藩池田邸に、喜徳は、久留米藩有馬邸に幽閉させられます。
12月7日、新政府から容保父子に、有馬家に永預けにするという処分が申し渡されます。
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明治5年(1873年)容保父子は、赦免されます。
明治13年(1880年)容保は、日光東照宮の宮司に任じられます。
明治26年(1893年)12月5日、東京小石川の自邸にて肺炎のため亡くなります。

松平喜徳(まつだいらのぶのり)は、慶応3年(1867年)3月、松平容保の養子になっています。
水戸徳川家で、第15代将軍徳川慶喜の実弟です。
慶応4年(1868年)2月、容保の隠居により家督を相続して会津十代藩主になっています。
容保と共に、幽閉されますが、明治5年に赦免されます。
明治6年(1873年)松川藩知事・松平頼之が死去したため、喜徳は容保との養子縁組を解消し、頼之の跡を継いでいます。
明治24年(1891年)6月3日、37歳で亡くなります。
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会津松平家は、容保の実子の容大に継がれます。
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日新館に家系図が展示されています。
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実子がなくて、養子をとった容保でしたが、会津戦争集結の後、
明治2年(1869年)6月3日、若松城下御薬園で生まれたのが、松平容大です。
血脈の者として家名相続が許され、生後4か月で、会津十一代藩主になります。
明治3年(1870年)、斗南藩主として、青森県下北半島に移ります。
5月には、版籍奉還で知藩事に就任し、
明治4年(1871年)7月、廃藩置県により、斗南藩は斗南県となり、知藩事職を免じられます。
明治26年(1893年)、陸軍に入り、日清戦争に参加します。
明治39年(1906年)、貴族院議員に選ばれて、死去するまで在任しました。
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昭和3年(1928年)、容大のめいにあたる勢津子姫が、昭和天皇の弟秩父宮親王と結婚します。
戊辰戦争以来、朝敵の汚名を拭いきれなかった会津の人々にとって、松平家の姫が、皇室に入るということは、大きな喜びでした。

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現在、会津松平家14代当主松平保久氏が活躍しています。

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会津藩その後② 戦死墓と怨念

会津戦争では、新政府軍と会津軍との双方に多くの戦死者が出ました。
新政府軍の将兵は、ていねいに埋葬されたのに対し、会津藩士や一般人の死体は、戦争が終わっても放置されたままでした。
若松城下は、会津軍の降伏と同時に、新政府軍の統治下に入ったともいえます。
ほとんどの藩士たちは、東京や斗南藩に移動しました。
残った農民や商人は、新政府軍の令に従うしかなかったのです。
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阿弥陀寺にある「戦死墓」の墓標、この墓標が建てられたのは、明治6年です。

明治元年(1868年)9月、会津藩の降伏で、若松城の籠城戦が終結し、城や城下が新政府軍に明け渡されます。
城下には、会津藩士や一般人の死体が放置されていました。
新政府軍の民政局の「手をつけた者は、厳罰」という令により、道々には、見るも無惨な死体が捨て置かれたままにされ、それは、時がたつにつれて腐敗し、鳥獣の食い荒らすに任されていました。
この非情な扱いには武士道など皆無であり、あまりの処置に多くの会津藩士が怒りに燃えていました。
これに、一部の会津藩士が民政局にかけ合い、明治2年2月、死体の埋葬がようやく許可されますが、普通の戦死者として扱うことは堅く禁じられ、埋葬地は、古くからの罪人塚、作業にあたるのは、罪人の埋葬にあたってきた人に限定されていました。
死体の扱いについては、ていねいとは決していえない有様でした。むしろをはじめ、箱や風呂桶・戸棚などに4、5体一緒に押し込んだものを、大きな穴に投げ捨てるというやり方でした。
このような墓に線香をたむけることは、許されませんでした。
これが許されたのは、会津戦争後初の春彼岸、明治2年3月のことでした。
ここまでの怒りは、武士道に生きた会津人の心の中に、「怨念」として永く生き続けていきます。

阿弥陀寺には、2千余名が葬られています。
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阿弥陀寺に墓標が建てられたのは、明治6年です。
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長命寺には、百四十余名が葬られています。
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長命寺に墓標が建てられたのは、明治11年です。
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終戦から10年たっていますが、賊軍の墓という見方は、依然としてかわらず、墓標の文字は、「戦死墓」と限定されました。
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「戦死墓」その3文字は、新政府軍が会津に刻み込んだ苦衷の証として、今でも残っています。

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会津藩その後① さいはての斗南へ

明治元年、降伏した会津藩の、その後を書いていきます。
1868年(明治元年)9月8日、会津藩が若松城に籠城している最中に、改元されます。
この年から数えて、今年、2018年は、会津人から見れば、戊辰戦争150年であり、新政府から見れば、明治維新150年なのです。

9月22日、降伏式が行われます。
9月23日、城内の会津藩士らは、猪苗代(会津藩領)に移動します。
9月24日、若松城は、新政府軍に明け渡され、武器、弾薬などが引き渡されます。

12月、藩主松平容保(まつだいらかたもり)と、息子喜徳は、東京に送られ、死罪を免じられ有馬家に永預けにすると処分されます。
1869年(明治2年)5月、藩主に代わる処分として、家老萱野権兵衛(かやのごんべい)が、戦犯として切腹しています。
戊辰戦争の戦後処理で、城や領地まで没収の上、藩主から藩士まで謹慎という厳しい処分は、会津藩だけでした。
これは、長州藩の報復だったといえます。

1869年(明治2年)1月、猪苗代に謹慎中だった会津藩士は、東京に移ります。東京では、謹慎所と呼ばれる捕虜収容所でした。
11月、松平容保の実子慶次郎に対し、猪苗代か陸奥南部藩領に三万石を与え、藩知事に任命するとの沙汰がありました。
これに対し、検討した結果、旧家老山川浩(やまかわひろし)の主張によって、北へ行くことが決まりました。
慶次郎は、生後4か月の幼児でしたが、容大(かたはる)と名のって、松平家の藩主となります。

1870年(明治3年)1月、東京と越後高田にいた4700人の藩士らは、謹慎を許され、容大に引き渡されます。
行く先が三万石だったので、会津に残る者、東京で暮らす者、北に行く者に分かれます。
2800人の藩士と、その家族を含めて17000人が、北に向かいますした。
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4月、大移動が始まります。
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新しい藩は、「斗南藩」と命名されました。
斗南藩の領地は、南北に分断されていました。
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9月、五戸に斗南藩庁を置き、2歳の松平容大が、会津から五戸に赴きました。

1971年(明治4年)2月、斗南藩庁を田名部に移し、山川浩が大参事になったが、冷寒な自然が、必死の努力を阻むのでした。
冬の間、寒い上に、食べるものがなく、地獄のような生活でした。
春になって、開墾しますが、収穫は、わずかだったようです。
7月、廃藩置県が布告されます。
これにより、斗南藩知事だった容大は、東京に移住します。
9月、斗南県は、弘前県に合併され、さらに青森県と改称されます。
こうして、斗南藩は、1年数か月で消滅したのです。
斗南に開墾を始めて、残った者もいましたが、10278人が、会津に戻っています。

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