会津領主・藩主⑦ 加藤嘉明の時代

寛永4年(1627年)、蒲生忠郷に代わって、伊予国松山城主であった加藤嘉明(かとうよしあき)が、若松城主となります。
会津藩は、安積、岩瀬郡を含む40万石でした。
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加藤嘉明は、豊臣秀吉に仕えていて、朝鮮出兵でも活躍しました。
秀吉の死後は、石田三成と仲が悪く、徳川家康に従いました。
関ヶ原の戦いの功績により、松山藩20万石の大名となっていたところで、会津入りを命じられました。
この時、嘉明65歳で、息子明成(あきなり)と共に会津に入っています。

会津に入った後、早々に嘉明は、領内の地名を改めます。
若松城下の日野町が甲賀町になったのは、この時です。
また、街道の整備にも着手しています。
それまで、若松城から白河へ通じる道は、背あぶり峠を経由していましたが、城下北東の飯盛山の近くから、滝沢峠を経由する新道を開きました。
登山口の滝沢の横山家は、本陣の指定を受けました。
江戸時代の終わりの戊辰戦争(会津戦争)まで、滝沢本陣は、藩主や家臣が、峠に向かう準備をするための屋敷として使われます。
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寛永8年(1631年)9月、嘉明は病にかかり、江戸の屋敷で亡くなります。
跡を継いだのは、加藤明成(かとうあきなり)で、40歳でした。
寛永16年(1639年)江戸にいた明成は、若松城の大改修の命令を出します。
蒲生氏郷が築城した若松城は、黒壁の七層の天守閣を中心に威風を誇っていましたが、慶長16年(1611年)の大地震で傾いたままでした。
七層だった天守閣は、五層に改修されました。
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北と西の馬出し(城門前の土手)は、共に拡張して、出丸にしました。
東に開いていた大手門は、北出丸に向かって開かれました。
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西出丸もつくられ、頑強な守りの城になります。
これが、戊辰戦争の籠城戦でも、新政府軍の城内侵入を許しませんでした。
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これらの工事には、上杉景勝が築城半ばで工事を中止した神指城の石垣を活用したと伝えられています。

このような工事を行うため、多額の費用が必要でした。
このため、年貢を厳しく取り、収入を増やす政策をとりました。しかし、明成は、病気のため、大藩の政務はとれないという理由で会津領返上を申し出ます。
寛永20年(1643年)、明成は、会津領主の座から降りることになります。加藤氏の会津統治は、16年でした。
明成に代わり、保科正之が会津に入ります。

保科正之の時代へ つづく

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